詩人

 ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」を
勉強の合間にパラパラと読んでいる。
 其の中の一節


 「信仰はわれを至福ならしめない」と、かれは言った、
「特に、われ自身に対する信仰は。
 されど、人あって、真摯に、‘詩人は偽ること多きに過ぐ'と言いたりとせよ、
その言はまさに正しいのだ。−われらは偽ること多きに過ぎる。
 われらはまた、知ることあまにも少なく、学ぶことにおいても劣っている。
それにより、われらは、はや偽らざるを得ないのだ。

 
 むかしニーチェの著作を読んだときには「ツァラトゥストラはかく語りき」は
まったくと言ってよい程理解できなかった。
 最近は自分なりの未来の軌跡を描き、有象無象の何かを残し、
かつ時代の波に消えなかった人たちは多かれ少なかれニヒリズムだと気づいた。
そのようにして読むとこの著書はある一部の人間集団を理解する端緒が開かれる。


 引用文の後半では
 「詩人=人間」と読める。
 人間は偽った表現をするからこそ人間である。
わたしは「ことば」というものも一種の道具で、結局現象を語るには
「ことば」は不可欠だが、語られるものは現象そのものではないという
歯痒いものである。
 ただ、「ことば」が「ことば」を語るときはどうなのであろうか、
単なる循環論法として一蹴されるのであろうか。