水とわたし

 前になにかの記事でモデルが美容と健康の秘訣についてこう言っていた。
一つ、寝る前に痛いところがなくなるまで足の裏をマッサージすべし。
一つ、水を一日二リットル以上飲むべし。


 こんにち、私は水を一日あたり3リットルぐらい飲んでいる。
モデルがわざわざ言うぐらいだから普通だとそこまでは飲まないのだろうけれど、
正面切って言われてみると日常的に水をたくさん飲んでいるのかなと思う。


 水をたくさんの飲む理由の一つは喉が渇くからである。
もう一つは(これは飲んでいる過程でそう思うようになったのかもしれない)
水を飲んでいる感覚が好きだからである。


 水を飲むという行為は地球上の陸上生物しては極々基本である。
その行為をとりてて誇張する必要はないのだけれど、
感覚なるものをあえて言語化すると比喩という形が適当なのでやってみる。


 水を飲むという行為は一つの概念に喩えると「取り込む」であろうか
取り込む「私」取り込まれる「水」。
 しかし私の概念では「取り込む」は「取り込まれる」とコインの裏表の関係
であるように思う。
取り込む「水」取り込まれる「私」。
と、このように人と物質互いに能動的で主体が二つでごっちゃになって
あやふやな境界線のところ好きなのである。
これはずいぶんと適当だと思う、能動的なものの見方は普通一つである。
しかし主観と客観の境界もおおむねここら辺であろう。
意識をすれば似たようなことを人は自然自然とやっている。


 また化学的にみても(*1)水は面白い。
高い表面張力、地球の温度にフィットした状態変化。 


 ところで地球の水と陸地の割合は7対3である。
また人間の体の組成も大体そのぐらいらしい。
 わたしが水に取り込まれていると感じるのも。
わたしのなかの七割の水が互いに呼び合っているのかも知れない。



 (*1)ふくふく氏へ
   「化学的にみても」のところの私の認識がすんごい適当
   アドバイスプリーズ。