日常

 昼下がりに珈琲を淹れようと思い。
薬缶を火にかけポットやネルなどを準備してから
豆を引きにミルのある部屋に行った。
 いつもの手馴れた作業なので部屋の電気を点けずに
光彩だけで豆をカップで量りミルに放りこむ。
 このとき間が悪かったのか、しばらくぼーっとしていた。
そして何かを思い出し考えていた。


 こういう状態になるときはろくなことがない。
しかし、考えまい考えまいと堅くなると逆にもろくなって
酷いことになるので最近は成すがままにされている。
そうこうする内に今思い出してみると
こんなことを考えていたようである。



 むかし自分のことを愚かだと思ったことがあった。
しかしそれは誤りだったなと、ぼっーと考えていた。
 どうしてかと言うと愚かという理由を付けて
やらなくてはならないこと「愚かだからできない」
という風に甘えの温床として使っていた気がする。
 またそういった人間を一番嫌っていたのに
自分がそうだと気づくと滑稽だと思った。


 私はこのタイプではなかったが、
このような仕事や作業は私の能力に対して
「荷が勝ちすぎる」という人もいた。
しかし任せられた仕事を十全に果たしてこそ次があるのであって、
どんなにつまらない仕事でもこなして見せるのは大切だ。
 ぼっーとした頭で感じたのは
物事を見るときに、自分を卑下してみるでもなく
高慢にみるでもなく、正眼でみるのが大事ということあった。
 目線の高低がなければ道が見えたときに
歩き易かろうという単純な思いつきではあるが。


 今は愚かという言葉に対しての感想は
愚かは案外楽でないということである。
 昔の愚かは単なる言い訳の一つであったが、
いま使っている愚かは少々意味が違う。
 違いは自分自身で最初は愚かだったものが、
時が経るにつれ慣れていくであろうという点である。
 刹那的に愚かになるのは或いは簡単なのかもしれない。
しかし最初は愚かであったものはすぐに普通になり
そしてどんどん愚かになって行って、次々と退廃していくには
自分の心身を剥落させつつ生きていくよりしょうがない。
 こういう生き方は信条に合わないので、もう辞めにしようと
未だにややうつつを抜かしながら思っていた。
 

 そうこうしているうちに、こっちの世界が明るくなって
いつの間にやら珈琲を淹れている自分の手が見えた。
 淹れるときの成否の一つの指標である
お湯を豆の上に注いだときに出る泡立ちは上々で
最初に粟のような気泡が表面に出てきて、その後
泡が寄り集まって炊き立てのご飯のような粘り気が出てくれば
成功である。そしてそのときはそうなっていた。
 そして実際に飲んで見ると味は泡立ちの成功ほどではなく
中くらいの出来であった。


 飲む前は「美味しいのを一つ淹れてやろう」という余計な
心情がないので巧くいったのかなと思っていたが、
 見た目が良くて味が悪かったことから考えると
やはり良いものを創ろうという心情が働きつつ
それを抑制することが出来ないと
美味しいものを安定して創れないようである。


 珈琲を淹れるのも中々難しいものである。