本を読む

 きのう今日と時間があったので、前に住んでいた街の図書館に引きこもって勉強に直接関係のない本を読んでいた。
読んだ本は『パイドロス』  プラトン(岩波)
     『精神指導の規則』デカルト(岩波)
     『職業としての学問』マックス・ウェーバー(岩波)
     『知の考古学』  フーコー(河出書房)
 といったものでフーコー以外は短いものであった。その中で抜粋をしたのがフーコーの「連続的な歴史」に対する見解で、彼は否定的であったがよくまとまっているので掲載してみる。その前に彼の「歴史」についての見解を掲載する。


 「歴史とは、一つの社会にとって、大量の記録、歴史がそこから離れられない記録、に対して、規約を与え、仕上げる、或る一つの仕方なのである。」


 「連続的な歴史とは、主体の創設機能の不可欠な相関物である。すなわち、主体から逃れ去ったすべてをとりもどし得る保証である。また、時間が主体を、再組織された統一のうちに復元されずには、なんら分散させないことの確実性でもある。これらすべての事物が差異によって遠くに保持されたなら、主体はいつの日か―歴史意識の形態のもとに―自ら、ふたたびそれらをわがものとし、そこに自己の住居というべきものを見出しうるであろうという約束でもある。連続した言説を歴史分析からつくること、人間の意識からあらゆる生成と実践の最初の主体をつくることである。この二つは、同一の思考のシステムの二側面である。そこでは、時間は全体化の用語で知覚され、革命は、自覚に関してのみありうるのである。」
 

 ある種の人間は「人間の意識からあらゆる生成と実践の最初の主体をつくること」を望んでいる。この場合だと「連続した言説を歴史分析からつくること」からそれがつくれるのではないかと考えた思想を二つこの文章に続けている、すなわちニーチェマルクスである。この二人は「最初の主体をつくること」を個人に求めるか、社会に求めるかは違っていたが、徹底的に他者の価値観を否定している点では似ている(マルクスであれば認識の共通化という形での多様性の否定)。そのような認識に立てば「最初の主体」とはニヒリズムであれば他者を徹底的に否定しているという点が万人の「最初の主体」であり、全体主義であれば、共通の認識を持って社会がつねに進歩していることが「最初の主体」である。このように考えれば主体から逃れた人間の紡ぎ出す歴史は、同じ「最初の主体」からでているのあるからデカルト式にいうと演算が可能ということである。そして失われて時間は自覚や全体化によって再び自己に戻ってくる。
 とここまでは巧い運びであったがフーコーの自身が支持する「非連続的な歴史」についての定義が曖昧であったので残念であった。
 この日に読んだ四冊の本の中でこの本は三番目に面白かったのであるが、実家を離れていた間に考えた文章の草案に関係しそうだったので取り上げてみた。


 『パイドロス』は前半が「恋」についてで後半が「文章作成」についてであるが、ソクラテスの弁論に納得するしないは別として、力強い文章だったのでのめりこむ、読んでいて楽しかった。
 『精神指導の規則』これはデカルトの哲学が完成する前の本なので、文学研究が完成した小説よりもむしろ習作を研究対象にすることがあるように、デカルトの哲学の過渡期に興味がある人はどうぞといった感じ。
 『職業としての学問』良心的な本で、それがゆえに迫力にかける。しかしこの中でたびたびトルストイの言葉が引用されていて『イワンイリッチの死』(トルストイ)のような波長が好きな人はマックス・ウェーバーがこの波長に同調しているところを読むと楽しめるかも。