史記『酷史列伝』

 司馬遷の『史記(第六十二 酷史列伝)』を読んで、冒頭部分の論語老子の引用が面白かったので該当部分を孫引きして遊んでみる。

孔子がいわれた、「法令によって指導し、刑罰によって規制すると、人民は刑罰にさえかからねば、なにをしようと恥と思わない。道徳によって指導し、礼教によって規制すると、人民は恥をかいてはいけないとして、自然に君主になつき服従する」(『論語』為政論)」と老子はいわれた、「大きな徳をもつ人は、徳ということを意識しない。だからこそ徳を体得しているのだ。小さな徳しかもたぬものは、徳を失うまいと力む。だから徳をもたぬことになる。法令がはっきりすればするほど、盗賊が多くなる」(『老子』)

ちなみに「礼」「徳」を広辞苑で調べてみると、
「礼」『社会の秩序を保つための生活規範の総称。儀式、作法、制度、文物などを含み、儒教ではもっとも重要な道徳的観念』
「徳」『1、道を悟った立派な行為。2、良い行いをする性格。3、人を感化する人格の力』である。

孔子の意見だと、なるべく刑罰は少なくして、まず人々を道徳的に感化して、その後もともとある生活規範を活用して「刑と罰」に対応するところを「礼と恥」として、罰せられたくないから「刑法を犯さないない」ではなくて、恥をかきたくないから「礼を失しない」とするのが良い、と読める。
一方老子だと、徳のある人は徳にどっぷりと浸かっているから、徳は空気みたいなもので確かにいわれてみるとありがたいものだけどあまり意識はしてないよ。でも徳の少ない人は徳を失うまいと足掻き、法令をきっちりと作ってこれをしなければ徳を守っていることになるのだ、と力んでいるうちはまだまだ徳があるとはいえぬ、と読める。

この二つを読んで思ったのは徳や礼をどのように普及するかは疑問としても、良い方法だと思った。西洋にも律法という考え方があっておおざっぱにいうと「みずからの行動規範を神の律(聖書の解釈)で縛っておいて、それに違反した場合は法に照らして対処をする」ということである。
社会や国家に対して悪いことを抑制したいという前提が成り立つならば、抑制には実際に悪いことは規制がなくとも悪いことだということが一人一人に認識していた方が効果がある。というのも悪いことをしようとすると、まず精神的なハードルが徳でかかり、その後礼や法で社会的な圧力(礼は違うかも?)の二段構えなので後者だけの場合よりも効果がある。
現代の日本の問題としても刑務所の人員が足りないとか、受刑者に対しての重罰傾向の影響で受刑者の在獄期間が延長しており結局受刑者が増えるなどの問題が起きている。
一般の法を犯さない国民も治安の悪化や税金の負担増など結構切実な問題になりつつあるので、かったるいかも知れないが、中国の古典を読んでみるのもいいかもと思った。(経済的な視点は今回は割愛しました。また機会があれば考えてみよう!)