ナチス裁判

 さっきそこでタバコの副流煙をすってきた。葉タバコの焦げる匂いは個人的には好きであるが、体に悪いので社会的には悪だそうである。そういえばスフィフトが『若い人たちへ』というエッセーの中で「胃に悪いからといって旨くもない生ぬるいスープを飲んで何が楽しいのか、馬鹿馬鹿しい」といっていた。今も昔も神経質になりすぎるのは馬鹿馬鹿しい。
ナチス裁判』(野村二郎 著、講談社)を読んだ。この本は1990年になってから書かれたもので、ナチス戦犯を追求することが難しくなり裁判の全貌が大体つかめたのでその統計的な史料を提供するために書いたそうである。
 淡々と死刑何人、無期懲役何人といった数字が載せられているが、犯罪者はユダヤ人600万人の虐殺や占領国の住民に対しての「平和、人道、戦争犯罪」に対しての罪があるとして裁かれている。ここで考えさせられたのは上官の命令に従って行った犯行も、本人が命令無視や違う部署への転任を希望できたはずであり、人間の良心からしてそうすべきであった、というくだりである。
仮にだれかが組織というものに属しており、その組織の中で長年の慣習として是とされてきた事柄を果たして良心という概念だけで抗しうるのだろうか。そもそも悪いことだと思えるかどうかもわからない。
カフカのある解釈者の指摘では現代人は超人でなければならないそうである。個人は組織のなかで表向きはミスがなく完璧で、その完璧を維持するルールは無論良心などではなく、法や組織を守るという至上命題さえ守られていれば完璧なのである。
戦前のドイツの法律によると、合法的に設立されナチスは合法団体である。わたしがその時代に生まれていてカフカの解釈者のいう「完璧な個人」になりやすかったとき、果たして良心が疼き犯罪によろめかなかったかは自信がない。しかし裁く側は裁き、裁かれる側は冤罪を主張して、死んだ人は死んだままである。誰かが殺したのは確かであるが、誰かを動かした制度が殺したでは許してもらえないのもまた判るので時代の摩擦熱で人名というエネルギーが使われたのだとも言えず困った。