ことば2

『伏せて重ねたトランプを見て、「一番上の札が何であるかは知らないが、何であるかはきまっている」という時、一体何がいわれているのだろうか。この言葉を聞いて、それを聞かない前に較べて、私の知識が些かでも増しただろうか。この言葉はどんな情報を伝えようとしているのだろうか。元来、この言葉には何の情報も含まれていないのではないだろうか‥‥上の札をめくってみてハートのキングが出たとする。「そら、ハートのキングだったじゃないか。ハートのキングにきまっていたんだ。だからもちろん、何かであることにきまっていたんだ」‥‥つまり‥何が出ようとこの命題は証明される。ということは、何も確かめない先から証明される必要のない命題、したがって経験と関係のない命題、簡単に言えば論理的命題だと言わねばならない。‥‥先の命題の後半の否定をつくると‥「一番上の札が何であるかは知らないが、何であるかもきまっていない」この命題は単に何の札だか知らない、ということを奇妙な仕方で言っているのでないとすれば了解不可能である。了解不可能なのは、無意味であるか、矛盾しているかのどちらかのゆえである。この命題(の後半)が無意味であれば、「きまっている」という元の命題(の後半)も無意味であり、この命題(の後半)が矛盾であれば、元の命題(の後半)は分析的命題、即ち論理的に正しい命題なのである。結局、この例のような〈きまっている)という概念の使い方は、無意味であるか、または論理的に正しいがゆえに経験的に無内容であるかのどちらかだと言えよう。‥‥無意味でないとすれば、それは論理的に真となるように使われているのである。‥‥それは経験について何も語らず‥‥水に入らないゆえに溺れず‥と同様に‥何も内容のあることを言わぬがゆえに正しいのである。』(大森壮蔵全集3「決定論の論理と、自由」、大森壮蔵、岩波)