ことば

『「いま」「ここ」に与えられた文字模様は例外を除いて、いつ如何なる場所での事態とも結びつきうる。ある種の人工的事物(特に、テレビ、ビデオ、映画)も時空の制約から自由であろう。テレビの画面を例えば三年前のセーヌ川の氾濫としてみてとることができる。しかし因果関連の制約から脱することはできない。これに対し、ことばでは何の因果関連もなくして何事でもかたれる。この時空および因果関連からの自由こそ、ことばを他の事物と分かつものであると言える。』(大森壮蔵全集3「ことばの機能とその限界」、大森壮蔵、岩波)
この考え方は面白い、つまり「わたしは2100年の氾濫したセーヌ川で罹災した」と文字で表せたときに実際問題として、わたしはセーヌ川で罹災していない、しかし文章としては語れている。これが実写の映像であれば「2100年のセーヌ川の氾濫」はまだないので撮れないのである。原因が作用して事実を形作ることを因果関係とすると、ことばは因果関係から離れて、まだ無く、しかもこれからもどこにもないが、ことばの中でのみある世界を創れるということだと思う。これを物語とでも呼ぶのだろう。