運動

こんな記事を読んだことがある。三島由紀夫太宰治が初めてあったときに三島が「わたしはあなたの文章が嫌いです。あなたの苦悩の半分は健全な生活を運動でなおるはずです。本当はこの会合も気がすすまなかった。」太宰「でも来たのでしょう。」といったものであった。
これと余り関係ないのかも知れないが、私も以前かなり精神的に参ったことがあった。しかし毎日体操をしていくばくか走ってみると、成る程苦悩する時間の半分は消えた。だが時間は半分になったが問題はなに一つ片付いていないことに気がついた。
しかし物事をプラスに捉えて運動の副産物を挙げてみようと思う。一つは歌が上手くなった、肺活量が増えたので一定の音域を保ち続けることが関係していると思う。血行がよくなって冷え性が改善してきた。成る程身体は健全だ。
だが、結局は肉体的な改善が精神的な改善につながるかというと疑問だ。太宰のいう「このわがまま勝手に生きて来たと周囲に思われてきた、わたしの苦悩は真実なのだ」のほうが的を得ていると思う。お金持ちでも、貧乏でも、時間があっても、無くても、健康でも、不具でも、苦しく悩む元を断たない限りいつどんなところでも人は思い悩める。
ところでこれからの生き方として、苦悩の元を正面から見据えて生きるのか、苦悩はあるものと割り切ってその不安定な足場に立って別の方向をみるのか、時々考える。しかしこれは無意味なことだと思う。どちらに決めても、結局は見るか、足元に感じるかの違いで存在を感じながらやっていくしかないからである。割り切れない嫌な感じはどちらにしても残る。なのでその時々に応じて自分がどちらを向いているのか把握して、それにあった対処をやっていくしかない。はっきりいって大変面倒くさいがそれがベターな態度だと思う。