20060220

二の続く日だなと思う。二月二十二日が楽しみである。
テスト前、最後の知人詣でに出かける。先生やパン屋のおばさん、珈琲屋の奥さんと雑談の日であった。


これは一種の感慨なのであるが、私は普通、珈琲を買った後に雑談をする。珈琲屋の奥さんやマスターとするのである。そしてきょうも以前いただいた本の話やこれからの進路の話、珈琲の話をしようと思っていた。しかしいくばくも話さないうちに次のお客が現れた。店は狭くカウンターの前のスペースに客は一人しか入れないので、トコロテン式に用事の終わった私は外にでてバイクに荷を固定しながらこの客が出て行ったらまた入ろう様子を伺っていた。
件の客の見かけは二十才前後の男性、短めの髪の毛、日本人にしては彫りの深い顔、黒っぽい服を着ていた。店に着くなり新しい豆の話を熱心に聞いて、結局ブラジルの豆をを500g頼んでいた。これはマスターの言うマニアックな客らしい、というのもブレンドの方が安く味も無難だから普通はそちらを注文する。一方ブラジルを500g一人で消費するのは結構ホネであるが、説明を聞いてそれで躊躇なく頼んだのをみるときっと消費できるのだろう。すごいことである。
ここまでわざとゆっくりと荷と遊んでいた私であるが、客が珈琲を購入してから質問を再度奥さんにしているのを見た。そして数年前の私にそっくりだなと思い、彼のほうが後から来て、珈琲屋で珈琲について知りたいことがあり尋ねている、実に正しい。それに比して私は特にこれといった話もなく用事も済んだので帰路についた。車上で少し頭がぼんやりしていたのを覚えている。それから暫くしてニヤニヤと笑っていた。
そして再び夜になって日記をつけていると、一瞬あの昔の自分を見るような既視感でぼんやりとしたのはなんだったのかという疑念が頭をもたげた。後輩に道を譲るやさしさであろうか?または自分の居場所を取られた嫉妬であろうか?自分はもう彼の立場と同じようには質問を出来ないことへの虚脱感であろうか?いろいろと疑問形を並べたが結局は、やさしさと嫉妬と虚脱が混ぜこぜになった感情のルツボからくる可笑しさである。私はある一つの言葉に収まらないと、笑うらしい、かっこ悪い奴である、わからないならスカしていればいいものを。
また、なんと言っても昔の私があの場所であのような質問をするのを想像するのはとてつもなくこそばゆいことであり、今はやらない。昔やっていたが今はもうやらないないことを見ると、私は笑うらしい、しかし嫌なやつだ、自分は出来るけれどやりませんよと言いながら他人や昔の自分を笑っているなんて、妙にねじけていやがる。しかし、それを外側から見られたのでラッキーだったなと思う。こういう精神構造を直したほうがいいのかなともぼんやり思う。