本が読みたい

毎日活字を読んでいる。
しかし、生きている字を読んでいない。
生きている字、すなわち文学、哲学、詩学である。
では、君が読んでいる字には血は通っていないのか。
つまり生きている人が一生懸命に創作していないのか。
答えは、イエスでありノーである。
一生懸命にやってはいるが、創作はあまりやってはいない。
なぜか、勝てる方法がパターン化しているからである。
勝つには、過去の化石の踏襲が手っ取り早い。
私的結論をいうと、かったるく眠い。
なので眠る。

アメリカン珈琲

アメリカン珈琲というと普通は薄い珈琲ぐらいの意味である。しかし私の場合だと普通に珈琲を落としてそれからお湯で薄めることである。これだとおいしくないところを落としてしてまう過抽出を防ぎ、旨みだけを楽しめる。
しかし今日珈琲専門の小冊子を読むと「浅い煎りから中煎りの珈琲を荒めに挽きそれを淹れたもの」とあった。相違点は挽き方の荒さとお湯で割らないことである。想像だがこれだと粒子が粗い分サッと飲める珈琲になると思う。
ちょっと気になったので実際にやってみた。粒度を二メモリ分荒くして、淹れるときのイメージはネルの中の温度をやや高めにして、全体としてはポットからの湯量は細く注ぐぎ、スピーディに淹れるようにしてみた。
飲んだ感想は、いつもの珈琲にあるボディと呼ばれる重厚感が弱く、後味の甘みがより増す感じであった。日本茶感覚でブルーマウンテンが好きな日本人好みの味だなと思う。あの豆も浅く煎れて、甘みと酸味を楽しむ珈琲である。
総括。あまり珈琲と縁の無い人には結構有効な淹れ方である。いつか試してみよう。

きょうの出来事

めだかのための水槽を昨日洗って天日干しまでしておいた。それに今日水を入れた。水槽の中に水草も植草するので専用の土を四センチほどいれた。土をいれてすぐは水が濁っているのでチリがひと段落つくまで明日まで待ってから、植草とめだかの放流を行う。めだかは春に産卵をするそうなので新しい環境に適応して、元気にやってくれると良いと思う。

運動

こんな記事を読んだことがある。三島由紀夫太宰治が初めてあったときに三島が「わたしはあなたの文章が嫌いです。あなたの苦悩の半分は健全な生活を運動でなおるはずです。本当はこの会合も気がすすまなかった。」太宰「でも来たのでしょう。」といったものであった。
これと余り関係ないのかも知れないが、私も以前かなり精神的に参ったことがあった。しかし毎日体操をしていくばくか走ってみると、成る程苦悩する時間の半分は消えた。だが時間は半分になったが問題はなに一つ片付いていないことに気がついた。
しかし物事をプラスに捉えて運動の副産物を挙げてみようと思う。一つは歌が上手くなった、肺活量が増えたので一定の音域を保ち続けることが関係していると思う。血行がよくなって冷え性が改善してきた。成る程身体は健全だ。
だが、結局は肉体的な改善が精神的な改善につながるかというと疑問だ。太宰のいう「このわがまま勝手に生きて来たと周囲に思われてきた、わたしの苦悩は真実なのだ」のほうが的を得ていると思う。お金持ちでも、貧乏でも、時間があっても、無くても、健康でも、不具でも、苦しく悩む元を断たない限りいつどんなところでも人は思い悩める。
ところでこれからの生き方として、苦悩の元を正面から見据えて生きるのか、苦悩はあるものと割り切ってその不安定な足場に立って別の方向をみるのか、時々考える。しかしこれは無意味なことだと思う。どちらに決めても、結局は見るか、足元に感じるかの違いで存在を感じながらやっていくしかないからである。割り切れない嫌な感じはどちらにしても残る。なのでその時々に応じて自分がどちらを向いているのか把握して、それにあった対処をやっていくしかない。はっきりいって大変面倒くさいがそれがベターな態度だと思う。

20060220

二の続く日だなと思う。二月二十二日が楽しみである。
テスト前、最後の知人詣でに出かける。先生やパン屋のおばさん、珈琲屋の奥さんと雑談の日であった。


これは一種の感慨なのであるが、私は普通、珈琲を買った後に雑談をする。珈琲屋の奥さんやマスターとするのである。そしてきょうも以前いただいた本の話やこれからの進路の話、珈琲の話をしようと思っていた。しかしいくばくも話さないうちに次のお客が現れた。店は狭くカウンターの前のスペースに客は一人しか入れないので、トコロテン式に用事の終わった私は外にでてバイクに荷を固定しながらこの客が出て行ったらまた入ろう様子を伺っていた。
件の客の見かけは二十才前後の男性、短めの髪の毛、日本人にしては彫りの深い顔、黒っぽい服を着ていた。店に着くなり新しい豆の話を熱心に聞いて、結局ブラジルの豆をを500g頼んでいた。これはマスターの言うマニアックな客らしい、というのもブレンドの方が安く味も無難だから普通はそちらを注文する。一方ブラジルを500g一人で消費するのは結構ホネであるが、説明を聞いてそれで躊躇なく頼んだのをみるときっと消費できるのだろう。すごいことである。
ここまでわざとゆっくりと荷と遊んでいた私であるが、客が珈琲を購入してから質問を再度奥さんにしているのを見た。そして数年前の私にそっくりだなと思い、彼のほうが後から来て、珈琲屋で珈琲について知りたいことがあり尋ねている、実に正しい。それに比して私は特にこれといった話もなく用事も済んだので帰路についた。車上で少し頭がぼんやりしていたのを覚えている。それから暫くしてニヤニヤと笑っていた。
そして再び夜になって日記をつけていると、一瞬あの昔の自分を見るような既視感でぼんやりとしたのはなんだったのかという疑念が頭をもたげた。後輩に道を譲るやさしさであろうか?または自分の居場所を取られた嫉妬であろうか?自分はもう彼の立場と同じようには質問を出来ないことへの虚脱感であろうか?いろいろと疑問形を並べたが結局は、やさしさと嫉妬と虚脱が混ぜこぜになった感情のルツボからくる可笑しさである。私はある一つの言葉に収まらないと、笑うらしい、かっこ悪い奴である、わからないならスカしていればいいものを。
また、なんと言っても昔の私があの場所であのような質問をするのを想像するのはとてつもなくこそばゆいことであり、今はやらない。昔やっていたが今はもうやらないないことを見ると、私は笑うらしい、しかし嫌なやつだ、自分は出来るけれどやりませんよと言いながら他人や昔の自分を笑っているなんて、妙にねじけていやがる。しかし、それを外側から見られたのでラッキーだったなと思う。こういう精神構造を直したほうがいいのかなともぼんやり思う。