粗大ごみを出しにいく

 ごみを街の回収センターに出しにいった。
出した品物は布団、テーブル、パソコンの周辺機器
花瓶、物干し台などである。軽トラックでたったの二往復で
あったが作業をこなすとじっと汗ばんでいた。


 回収センターに着くと荷物を積んだトラックの重さを量り
帰りに荷物分だけ軽くなったトラックを量り
10キログラムいくらで回収してくれる。
10キログラム単位当たり三十ウン円だから安いものである。


 回収センターに入るといくつか運搬機が鎮座しており、
それぞれ一定量になると稼動して破砕機にかけるようである。
作業員に混ざって荷物を運搬機のある奈落に放り込む。
まだ使えそうなごみは別のトラックに積んでどこかへ運ぶようである。
 

 ごみを奈落へ放り込みながら考えたことはゴミが多いなということである。
そしてそのゴミは昔道具であり商品であったわけあるが、価値が無くなれば
このように捨てられる。
 マルクスに拠ると商品というのは過去と労働という形でつながっている
そうである。つまり冷蔵庫を作るためには、プレス機を作る人が働いて
鉄板を作る人がいるわけである。さらに鉄鉱石の採掘と連鎖は続いていく。
このような連鎖を断ち切るわけであるからなんとなく物憂げである。


 むかし馴染みの珈琲屋の奥さんがカウンター越しに、珈琲が商品として何がいいかっていうとそれは消費されて消えて無くなることよと言っていた。
珈琲の出がらしは確かに出るが、そういう意味で言ったのではなくて、時間が経てば容赦なく捨てられる「まだ使えるかもしれない」在庫としては残らないという意味で言ったのだと思う。少なくとも腐るものは用不要の逡巡はわかり易い。


 昔々は一枚の半紙でも習字に使い、障子に使い、包装紙に使い、
最後は自分の家で焼いていたそうであるが、現在では宮崎の山奥に
引っ込んでいたトルストイ研究家のような暮らしをしなければ
ゴミは出てしまう。
 精々、無駄なものは買わないを肝に銘じるぐらいであろうか。