血圧計

 血圧が高いと指摘された(私ではない)
ので血圧計を購入することになった。
 さっそくお店にいって陳列している機器を物色した。
そのうちに店員を捕まえて解説を聞いたり質問をしたりして
測り易そうなのを選んで購入する。


 家に戻ってから早速測ってみると私の血圧はかなり
低いという結果だった、布団から中々起きられないのも頷ける。
 

 血圧計で遊んでいて思ったことは養老氏のこんな言葉であった。
『現代という時代は、特に都会は、ソフィスケート(内知化)されている。
 試しに街にでてごらん、コンクリート、ビル、街路樹すべてが
 人間に企画、設計されている空間だ』
 また、別の箇所でこのようにも言っていた。
『人間の人生もソフィスケートされている。
 医学が進歩して大体の寿命がわかり、何をどうすれば
 どのような結果になるかとということを多かれ少なかれ
 意識して現代人は生きている。
 意思では医学なんてと思っても実際にはそうなるので
 抗うことが出来ない』
 というようなことを言っていた気がする。


 実際、日本の医療も予防に力点を置くようになり
それを行っている行政や民間をクローズアップする記事や映像を
ちらほら見るようになってきている。
 財政的な面や本人の人間らしい身体の維持という
流れは止まることがないだろう。


 しかし人生(寿命)がソフィスケートされているとのことであったが、
自殺はどうなのであろうか。
 ドストエフスキーの『悪霊』の登場人物キリーロフの場合
作者の考えるニヒリズム追求の結果自殺をしてしまうのであるが、
この場合は意思が寿命を決めているので例外であると考えている。
(心理学的に考えるとやはり病気なのだろうか)
 この場合も広い意味の寿命における条件であると思う。
それは『死に易い性質』を持っている人は死に易いである。
 これを高血圧の人は脳梗塞になり易い、
しかし医療が発達した現代では昔よりも回復する見込みがある、
と同列に語れるのかどうか。
 意思が身体を超克する場合もあり、この場合は身体的な
ソフィスケートに因る抑制も意味をなさないと思う。
 

 ここまで考えて日本における自殺の多くが健康によるもので、
それをないがしろにして考えていたので自分は酷いやつだと気づく、
この場合自分の余命と社会の関係が苦しくなって死ぬのであるから。
身体が充実していて死ぬなどは許せないと思う。
 

 でも『死に易い性質』を持っている人は死に易い、
という我をなくすと私の場合途端に生きていくのが苦しくなるので、
健康に留意しないといけない人にすまないと思いながら
我は通して生きていこう。


 そんなことを血圧計で締め付けれたことに反発するように、
血流が弾力的に脈打つ左腕をもみながら考えていた。