積読

 先日  『知の考古学』 フーコー(河出書房) を読んでフーコーが「連続的な歴史」を批判しているのに「非連続的な歴史」についての定義が曖昧だ、などとのたまっていたが定義らしいものはあった。それは史料を自分なりの仕方でまとめなさいである、もう少し付言すると歴史には流れを変えるピークが存在しているので、そこを非連続的に取り出して検証しようということである。(序論しか読めなかったので、また読む機会があれば訂正します。)

 ところで、しばらく実家を離れていたときに古本屋に行ってきて次のような本を買ってきた。
 『ナチス裁判』 野村二郎 (講談社新書)
 『スペイン戦争』 斉藤 孝 (中央新書)
 『アーレント政治思想集成』 斉藤 純一 他 (みすず書房)

 『ナチス裁判』と『スペイン戦争』はナチスファシズムが与えた動揺やその末路について書かれているのでわかり易い、しかし『アーレント政治思想集成』で「フランツ・カフカ再評価」と題された一章は文学を別の角度からみていたので面白いとおもった。
彼女はカフカの『審判』を以下のように評していた。

 「この小説は、自分では見つけだすことのできない法律によって裁判にかけられ、いったい何が起きたのかをつきとめることのできないまま処刑される一人の男の物語である。」
 このような粗筋の書かれた背景をこう解釈していた。「カフカは、神に優位するものとして自らを確立した社会を描いたのであり、また彼は、社会の法を神の法と見なしている人びとを描いた。言いかえれば、カフカの主人公たちがとらわれている世界の何がいけないのかといえば、それはまさにその世界が神となること、それが神秘的な必然性をあらわしているかのように見せかけていることである。」
 そうした社会であれば(以下『審判』より)

 「というのも、一切を真実として受け入れる必要はないからだ。それは必然として受け入れなければならない。」「憂鬱な結論だ」とKはいう。「それは嘘をつくことを普遍的な原理にしてしまう」。」

 このように小説では神格化された社会の法を、矛盾があろうと遵守するという憂鬱な結論になっている。

 カフカの生きた時代は神格化された法がマイナスの側面に猛威を振った時代で、彼が死んだ後の出来事を文学ではない角度から『ナチス裁判』と『スペイン戦争』が綴っている。
 これらの本が流通し手元にあるということ、またそれを私が面白いと思って集めたことを含めて、これらの本が私に示唆するのは、文学、歴史、経済、法にかかわらず、どのようなジャンルからのアプローチであろうと歴史の流れを変えるピークに向かって、記述や読書というものはなされているのかも知れないということであった。当たり前の話であるのだが。